2章 新人類とは?

『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』 ひとり読み!
 
 サイドストーリーいっぱいの大塚英志さんの『「おたく」の精神史』を解読しつつ、ウチのページのネタにするというナマケモノな企画も無事に第2弾。(W

 まだ書きかけなんで、後で追加訂正します。わははは

「おたく」の精神史 一九八〇年代論

「おたく」の精神史 一九八〇年代論


第2章 「新人類」とは何であったか?
 
 83年の時点で「全共闘的なものの」「運動」の残りだった「三流エロ劇画ムーブメント及びニューウェーブ」は失敗し、終わっていた....という指摘があり、新鮮です。なるほど

 目の前で終わっていった雑誌群が
 文化的運動を擬態することで
 商業的に敗北したのは明らかだったから
 ぼくはまんがを何よりも商品としてまず一義的にとらえることにした。

 これは、当時編集者として働き始めていた大塚さんの、雑誌一冊つくって10万円に満たないというシビアな環境でこそ考え抜かれた結論かもしれません。東浩紀さんが『動物化するポストモダン』で考察したリミテッド・アニメが国産化される過程と同じような状況ですね。経済的な制約からくるものって意外に大きいのがホントだから。 
 そして、左翼くずれの文化運動はダメ、「「おたく」は成長していく「市場」なんだから」と大塚さんは考えて、「「新人類」的な描き手を切り捨て「おたく」を雑誌作りの中心に」することにしたそうです。これが中森明夫さんをクビ?にした理由....つまり中森さんは新人類を擬態したから....ということみたいです。
簡単にいうと

   全共闘の残りの文化的運動は敗北した。
   新人類も擬態された運動だ。
   だから新人類は(も)ダメだ....

という認識です。

 ここに『物語消滅論』の原点があるんで、注目です。これがイデオロギーはダメだという認識になって、20年以上たって『物語消滅論』という解答?になるワケですね。
 
 さらに大塚さんは新人類の定義を試みます。この視点がユニーク! 当時左翼っぽいスタンスで言論をリードしていた(かな?)『朝日ジャーナル』に登場した新人類をリストして、「「新人類」の顔ぶれは」「相当に妖しい」とジャッジ。

「新人類」たちの多くは、その時、いまだ何者でもなかった。

ということで、何者でもなかった新人類は「自らがまとう記号の操作」に長けていたと断定。反対に自らの記号的操作に「まったく無頓着であったのが「おたく」」だと分析します。
 そして

 「新人類」の本質とは実は消費者としての主体性と
 商品選択能力の優位性にある。

と結論。新人類は消費資本主義社会の主体、てなワケです。
 しかも、その仕掛人は「八〇年代初頭に資本と結びついた団塊世代」と指摘。考えてみると当時文化を商品化したといえばパルコや東急ハンズ、メディアではサブカルへのアプローチもあって注目された番組「YOU」などで、その経営者やプランナー、司会者として堤清二、増田通二、糸井重里浜野安宏などの名前が浮かびます。たしかに団塊世代以上の人たちです。


 大塚さんは次のように定義します。

  「新人類」の市場を制しているのは団塊の世代で、
  「新人類」の思想や文化は擬態だ。
  「おたく」はコミケのように自給自足するほどの貪欲な消費者だ。
 
 この辺の大塚さんの主張はとても誤解を招きやすいもので、ウチもアタマが混乱気味....? 誤解の原因はすでに消費社会を生きてきている読者と、当時の個人的な体験から認識している大塚さんとのギャップかなと思いますが....。
 たとえば新人類がダメだと判断される理由。全共闘と同じで商業的に失敗する(だろう)からダメなのか? でも、新人類のガイドでありマニフェストだった「ホットドッグプレス」はつい先月の11月まであったし、ゼロ記号的な〝何者でもない〟新人類のフィールドはその後の多くのシーズとなってるし、『構造と力』は48刷もされているし....。それに比べてコミケの規模が一般市場と比べて有意な規模だとは思えない....。

 でも当時の大塚さんのポジションからすると

二〇代半ばのエロ雑誌の編集者にとって、
自らの「市場」たり得たのは「おたく」であり
「新人類」ではなかった。ぼくが中森の存在を
雑誌から消す必要があったのはそれゆえである。

 つまり、大塚さんのフィールドであるまんがでは新人類は全共闘の残党と同じ敗北者だということですよね。それが新人類を擬態する中森さんを排除する理由でもあると。
 
  大塚さんのフィールドでは新人類は敗北者だった。
  だが消費社会全般では新人類は消費のリーダーだ。

....ということでフレームの設定で評価が反転しちゃうワケです。ここが誤解されやすい要因の1つ。大塚さんが論点や責任の所在をハッキリさせるためなど幾つかの理由で極私的なスタンスを貫いているコトが原因ですが。ホントの問題はそれを他者に伝達するために事前の抽象化や再展開が適切になされているかどうかかも....。
 
 大塚さんのフィールドから中森さんが排除されますが、逆に、一般市場としての新人類の最後尾に並びたかった宮崎勤が、糸井重里さんの番組「YOU」に出演しながらも一言もしゃべらずに終わったというメモを彼の父から譲り受けたことを記して終わるのは、作家としての大塚さんらしい演出でもあり、ある視線にとってはあまりにも象徴的なものでしょう。
 この章は重要です、という感じ。