3章 性の変容?

「おたく」の精神史 一九八〇年代論』 ひとり読み!
 
 エグザンプルとエピソードがいっぱいの大塚英志さんの『「おたく」の精神史』。読むの楽だと思ったら結構ヘヴィもん。そのワケはあまりにも個人的....だからではなく、具体例が多過ぎだから、かな。でも、それだけに現代史の確実な一面を描いた貴重なものだと思います。
 竹熊健太郎さんの『私とハルマゲドン』、宮台真司さんの『サブカルチャー神話解体』とその公式?な姉妹書である岩間夏樹さんの『戦後若者文化の光芒』もいっしょに読めば完璧! あなたも現代史のプロ?に....


オススメ本など....

   『私とハルマゲドン―おたく宗教としてのオウム真理教

   『サブカルチャー神話解体
      ―少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在

   『新世紀のリアル

   『戦後若者文化の光芒―団塊・新人類・団塊ジュニアの軌跡


第3章 記号としての性
 
  83年前後に「性表現の変容」があった・・・
  それが「おたく」的なるものの成立の大きな理由の一つだ・・・

これが大塚さんがエロまんが雑誌制作の現場で実感したもの。
しかも、それらの事実は

  90年代の「ブルセラ」「援助交際をめぐる
  現象や言語の「序章」だった・・・

というが大塚さんの認識です。
 こういうところに社会やデキゴトを通史や歴史つまり物語として読み取ることができる大塚さんの能力があります。
 
 専門家?による性の表出と受容とサブカルをリンクした重要な論考として斎藤環さんの『戦闘美少女の精神分析』があります。それによればオタクの特徴は「多重見当識」であり、しかもオタクと一般人は同じ神経症だということです。年代的な背景もしくは全体像としてイリイチやD・G(ドゥルーズガタリ)のn個の性的などの主張も参考になるかもしれません。
 
  「エロ劇画」から「ロリコンまんが」への交代・・・
  写実的エロスが記号的エロスによって交代していく雑誌・・・

 大塚さんは以上のような自分の仕事の現場で得た基本認識のもとに3つのことを説明しています。

  性表現が記号化した
  性表現の主体が女性の側に移動しはじめた
  性と自意識が乖離した

 ここで手塚治虫の〝自分のまんがは写実ではなく記号だ〟という主張を「性表現の記号化」のさきがけと指摘しているのはまんが評論における大塚さんの独壇場的なスタンスでしょう。(手塚治虫に関してはパリのコミック界から日本の現状を批判し続けた奥田鉄人さんの主張もユニーク!)そして大塚さん自身が以上のトレンドを編集者として進めていくワケですね。


 このトレンドに対する異論を「「おたく」批判」として主張したのが中森明夫さん。そのため中森さんは大塚さんからクビにされます。仕事としては中森さんを排除した大塚さんですが、本書を含め、その後の社会認識の中で、中森さんの指摘した問題を正面から考え続けて、そこから普遍的な認識を導いているとこがエライ?です!。

記号としてのエロティシズム、身体を排除した性という性表現に対し
批判を加えたのが、実は中森明夫の「おたく」批判であった。

 中森さんは「二次元世界」(まんがや雑誌)での性表現を批判しつつ「現実」の「街」に「いっぱい現れてる」「感性キラキラ少女達」を強力にプッシュします。ある意味で現実に戻れ!的な批判かも。(ところで「感性キラキラ少女達」の1人で読者モデルのさきがけになった少女も、いまは元若乃花の奧さんですね!)
 
 中森さんのスタンスはオタク的なポジションでありながらホットドッグプレスやポパイがターゲットにしていたC調メジャーな世界を志向したといえるもの。つまり新人類が先導しパンピーがフォローする次元であり世界です。
 このトレンドは80年代をとおして拡大していったバブルそのもので、「知識」まで商品になりニューアカも登場しました。90年代になってバブル経済が崩壊しても、その上部構造である文化や感性はそのままポストモダンといわれる状況を生みます。
 その後、このような状況とその変化を独自の観点で考察したのが東浩紀さんの『動物化するポストモダン』。重要タームである動物化」概念はもともとは『資本論』(マルクス)で提出されたもの。消費者のことですが、経済主体のパッシブな面を捉えた概念です。現代思想の大きな潮流をつくったカルチェラタン前後のフランス共産党周辺の学者からはこれをさらに進めて受身一方の存在である消費者にこそ革命の主体を見出そうとする試みがありました。『都市革命』(H・ルフェーブル)参照。日本でH・ルフェーブルを読み、同じようなスタンスで思索した人が吉本隆明さん(だけ?)ですね。


 大塚さんは中森さんが「街」「現実」という言葉を多用することを指して、それを追究します。

  「現実」「街」とは・・・
  マガジンハウス的なメディア空間との整合性を念頭に置いた
  「街」であり「現実」である・・・

 そこで大塚さんはラジカルな疑問を投げかけます。

 これらの「街」「現実」において、
 「肉」「性」といった非手塚的な領域はどこにあるのか。

 そして新人類の御三家といわれた人たちの対談本『週間本28 卒業―KYON2に向かって』を参照すると....。

  松本伊代っていうのはディズニーランドに似合う女の子を
  作ろう! と思って出て来た・・・

  少女隊はレプリカントである必要がある・・・

 大塚さんは、これらの中森さんたちの発言から、少女タレントたちは「都市が記号として変容し」それに「応じて」「生身の身体を記号化させなくてはならない」ことを指摘。 でも「現実少女たちの身体を加工しようとしていた制度が何であったのか」新人類も自分もわからなかったことを表明しています。そして、生身の身体の記号化にともなう悲劇として、あの伝説の少女タレント岡田有希子の自殺を示してこの3章は終わります。
 やっぱり大塚さんはツカミやヒキが得意。作家ですねえ。


オタク論議の参考に....
 id:sikenさんがまとめてる〔ジェネジャン「おたくってだめですか?」はてな内まとめ〕がオススメ!


 ところでリアルに秋葉原という都市の変容とそれが象徴するオタクとは何を示しているんでしょうか? アキバは間違いなくオタクの街ですが、同時にとってもディープで人間的な街です。変容し続ける都市=アキバへの探究はコンプリートすることはないような気がします。