硬派語りTK浅田POP論
つーことで、今日は、超硬派に語るTK浅田吉本POP論でっす。
10月23日の「僕らの音楽」が面白かった。ゲストは小室哲哉で、新聞欄の説明は
ケイコの故郷大分ですべてを語る
....で、小室さんが大分を歩いて案内しながら語るというもの。
セリフはもう憶えてないけど、とうとう小室さんは自分の限界を語ったような、いい曲でも売れないということに気がついた、そういう風に感じさせる場面があって。テンションノートと3コードでありがちなブロックコードのrhythmが小室さんの特徴。B'Zとある種共有する作曲方法もあるらしいけど、90年代に音楽理論を超えた楽曲を作ったことは歴史?に残るでしょー。もちろんプロの音楽関係者ほどTKを批判したのも面白かったけど。
メロディも、歌詞も、よくできていて、 それでも売れない曲がある。 その土地にハマってないと、売れないんですよ。
みたいな感じで。
これが、あの<世界?の小室>を目指した(と本に書いてあったもんね)人が気がついた大切な認識みたいです。「土地にハマってないと、売れない」....。
ところで、浅田彰さんが評価の対象としてのPOP文学を語るときの<POP>の意味は何か? 先に解答をいっちゃうと「土地にハマ」らないモノゴト、でしょ。たとえば<田舎>にハマらないから<都会>ってなもんで。
浅田さんがいう<POP>とは....。
それが小室さんにおける<世界>なんじゃないかな。
つまり吉本さんにおける<世界視線>の<世界>のコトとして。
それは具体的には外感覚によって受容されるモノゴト。
そしてそれを内感覚が(も)受容(追認)したときに、
それはその人にとって内化されるワケで。
このときに内化できない人、受容できない人が対象を拒否します。
それがTKが拒否された理由だし、浅田さんがJ-POP文学を否定する理由だもん。
外感覚つまり一般でいう五感が認識するレベルでは<指示表出>、内感覚つまり内臓系もしくは摂取というカタチでの受容では<自己確定>ともいえるもの。自己確定できないもに対する拒絶の反応は激しくてテッテー的。なんといったって身体的な拒絶だからさ。でも、そんな拒絶を見切るコトこそがポスモダだったハズなんだけどな。
もう若くはない、オヤジになった小室さんが「新堂本兄弟」で
大切なものは.... KEIKO、サッカー、大分
とニコニコ答えたのが印象的。で、マットーでしょー。
自分の相手と、自分の仕事と、自分の場所。
素直にそれを肯定できるようになったワケで。
青春とかドラマって、この3つのどれかに対する反発や思い入れでしかないモンね。
人間のどんな認識だって<場所的限定>に対する追認と反発以外にはありえないから。
ワタシはダレ? ココはドコ?
ココから分岐し、分周し、ルーチン化していくのが人生じゃんね。
これが、ホントの物語論の原点でしょー。
おわり