2つの作品の意味

問題は、最近書かれて、今ここにある2つの作品が、それぞれ現代を代表する表現だと評されながら、相反する意味をもっているらしいコトですね。特にある種の人たちにとっては、かな。気になるのは、ソコ。
2つの作品というのは『メロウ』と『蹴りたい背中』。
新人類世代の代表といわれた人の作品と、団塊ジュニア世代以後の作品。
ドゥマゴ文学賞受賞作品と芥川賞受賞作品。
ニューアカを演出した仕掛人のTVディレクターと、平凡な学生を目指してる文学少女な人。
 
そのいろいろな違い、意味の違い、価値の違いを集約?したように感じられるのが今回のドゥマゴ文学賞の只1人の選考委員でもある浅田彰さんのコメントです。アンファンテリブルといわれ、思想書としては驚異的な49刷りを記録した『構造と力』の著者の浅田さん。その彼は『メロウ』を次のように選評で絶讚してます。

  「メロウ 1983」は、「J-POP文学」でもなければ、
  「1980年代」への遅れてきたノスタルジーの産物でもない。
  日本に久しぶりに現れた純正なPOP文学、
  まさに現在が必要とする現在の文学なのです。

その数ブロック前にある文章では

  貧乏臭くも湿っぽい感傷を後に残す低劣な「J-POP」文学と、
  それはおよそレヴェルの違うものなのです。

と激しく「J-POP」文学を批判。
 
なんか、直ぐには、よくわかりませんが。ルサンチマンさえ感じさせる、この激しい否定は何なのか? これまでの浅田さんの言説を「私にとって希望でした」という「浅田彰電網版」の主宰者は、この浅田さんの言葉を知ってWEBを閉鎖しちゃいました。

  浅田彰電網版

  世界はくだらないことばかりですが、
  浅田彰氏の言説は私にとって希望でした。
  先日、ドゥ・マゴ文学賞の発表がありました。
  審査員は浅田氏でした。受賞作品はつまらないもので、
  浅田氏の選考評は醜悪でした。
  私にとって世界は再びくだらないことばかりになりました。
  したがってこのサイトを閉鎖します。

浅田彰電網版」って、読んだことないので知らないけど、浅田さんの、J-POP文学への激しい否定は、わっかりません。
 
個人的には『メロウ』をいいと思いますが、浅田さんの選考評はひどいと思います。何でもありのポストモダンを、一時期でも担った人が、自分が嫌いな作品は否定するのか? だいいちポストモダンて<好き・嫌い>のムーブメントだったの?....てな感じ。
 
自分の<好き>を肯定するために批評するならいいけど、
自分の<嫌い>を肯定するために批評が行使されるのか?
 
....なワケで、これは追究かな、っと。(W
 
この文、書き換えるために、突然削除とかするかもしれないけど....