『メロウ』だよん

メロウ

メロウ

 15日の新聞に『メロウ』関係の記事があって、ドゥマゴ文学賞の只1人の選考委員でもある浅田彰さんのコメントがメイン。その記事を読んで、いいたい事が2つほどオ。ホントは3つかな....。


 1つは浅田さんの『メロウ』への評価には、特に異論無し。ウチもそー思いますウ。
 以前から田口さんの作品は読んでるんだけど『メロウ』の最終?的な感想は『センチメンタル・エデュケイション』の延長....という感じ。ウ〜ン、感想にしちゃ芸が無くてスイマセン。
 ストーリーを詳細に考えるよりプロットの段階でどんなパーツを置くか考えて、それをつないでいく....と聞いたことがあったので、ああコレとアレとソレと、こーゆーの書きたかったんだろうな....と思えるパーツが散見したりします。すると過去の作品からひきづったりしてるモノ、こだわってるモノがよーくわかります。(W
 
 その点からは「エディプス的なものからの逃走といったテーマを無理に読み取ることも不可能ではないにせよ」と浅田さんが「第13回 ドゥ マゴ文学賞」の選評で語っているようなもんで、そーいった観点で分析するのは簡単でしょー。
 そして続けて浅田さんが指摘するように「内容が何ひとつ無い」「表層的な言葉を連ね」た「おそるべきアクロバット」で「私たちは」「読むことの快楽に満たされ」「読み終えたときは何ひとつ覚えていない」と賛美できるものだとも思います。
(もちろん厳密には「内容が何ひとつ無い」ほど読者にとっては鏡像界的認識をフラッシュバックさせる可能性や、対象に投影された自己意識の自己言及不可能な面がフォーカスされていくという遠隔対称性が発現するわけですが、まあ、これは別の機会に....)
 しかし「表層的な言葉だけで勝負するPOP文学」というのがPOP文学の定義なのかあ? 浅田さんは指示表出だけのコンスタティヴな表現でも期待してんでしょか? とか考えちゃいました。そりゃオブジェクト志向じゃん、と。それを回避せざるを得ない表出こそ文学のハズ、じゃないの?