『メロウ』批評かよ

 2つめはちょっと複雑。{「浅田さんの『メロウ』の評価」への評価}というポストモダン?なトートロジー気味の言説可能性へのスタンスだかディフェンスだかで、浅田さんが心配してるコト。なんとこの新聞記事の書きだしからして、このコトなんで、何でエ?な気持ちですヨ。まあ浅田さんの正直さゆえの姿勢なんだろうケドね。あるいは朝日新聞らしさ、か。

浅田さんは選評であらゆる批判を想定し、「80年代の生き残りが内輪の
コネクションで80年代の生き残りの作品に賞を与えた」という「下司の
勘繰り」はさせておけとまで挑発する。

新聞によるとこーゆーことですが。
 疑問?てゆーか強く感じるのは「リスペクトはドコへ行ったんだあ?」とゆーことですね。それから「内輪のコネクション」なんて常識では?とゆー感想。たとえばパトロンなしでは文化が成り立たないのは昔からトーゼンでしょー。放送大学の講義で浅田さんはそーゆーコトも講義してなかたっけか? ウチは高校の美術の授業で、そーゆーことは興味深く教わりましたが。だから胸を張って仲間?である田口さんをプッシュすればよかったんじゃないの? まーそこまでいわなくても「下司の勘繰り」ナントカとゆー態度は過剰なひとりよがり?にみえます。パトロンがパートナーをプッシュしようが、友人が仲間をホメよーが当り前では?


『文学界・十一月号』の討議では

現在オタクが流行っているように見えるのは、
たんに彼らが編集権を持った世代になったからでしょう。

と当り前の指摘をする浅田さん。浅田さん自身その才能を認めた今村仁司さんのプッシュでデビューしたという話しがあるし、誰もそんなことは責めないのでは?
 政治的にいえばそれも党派性でしょうが、そーゆーものを免れるというのは、それこそ浅田さんだか浅田さんが想定する<POP>だかのもつ幻想であって、ただのライターや評論家だって編集者のプッシュが無ければ仕事なんてないのは常識でしょ。
 
 パトロンやプッシュというものを過剰に避ける、あるいは責めるその体質こそ近代的な病なんじゃないのかな? それはありもしない平等や正義という公準から外れることを恐れた近代の病でしょ。あるいは共同性へのビビリ、か。中間層の仲間意識を保持する幻想の公準を死守しようとするプチブルなんとかのジャッジに怯えるのか?


 それを<リスペクト>のキャッチで何気でクリアーしたんじゃなかったのか?
 それがPOPの持つ知恵なんじゃないの?
 古い言い方でゆーと、<大衆>の知恵!
 ボンビーで仲間以外は何も無いかもしれないブラザーが<リスペクト>のひと言で債務者からスターへの転身がOKかもしれないのが<世界>の<可能性>じゃないの?
 
 作品が作者という存在の文脈の一貫であることは拭えない事実。商品は資本主義の文脈の一部だし、資本主義を代表するものでしょ。読者も結局は作者を読むわけで、その意味で、「下司の勘繰り」など気にせず、堂々と田口さんをプッシュすべきじゃないのかな。