『浅田』批評だよ
そのうえで、これが3つめですが....
「J-POP」がかつて「邦楽」と呼ばれたものの化粧直しに過ぎないように、 「J文学」――いや、村上春樹あたりから最近のネット文学にいたる広い 意味での「J-POP文学」は、日本的としか言いようのない貧乏臭くも湿っ ぽい陰を帯びている。それは「J-POP」であってPOPとは似て非なるもの であることを、田口賢司の作品ははっきりと教えてくれるでしょう。
この批評?に責任をもって応えてもらいたいですね。
「「J-POP」であってPOPとは似て非なるもの」とは何か?
結論をいってしまえば、コンスタティヴな表記にもとづくよーな表現が浅田さんのいう<POP>なのか? それは言語学的には<指示>のみを理想?とする表現体系であって完璧なオブジェクト志向? そんなものは現実には有り得ないでしょ。
いかなる表現も、その表現体における環界との関係性、つまりローカルであること、という拘束性をまぬがれないという事実(つーか真理)のなかで、何を<POP>だというのか? コンスタティヴ云々の延長上のことであれば、そんなのはスターリンの『自然言語学』の範囲内のコトでしかないでしょ。コンスタティヴの究極にコンピュータ言語がくるというスターリン言語学とどこが違うのか? だからこそ<国語>を制定せずに<すべてはローカル>というコンセプトでローカル言語=民族語を大切にしたスターリンの達見と可能性=実現?可能性、は、日本でもロシアでも大ヒットした村上春樹への否定しかできない浅田さんの批評?とレベルが違う過ぎるでしょ?
諸々の構造とりわけ経済が自己完結的・自己維持的ではありえず 外に向かって開かれており、従ってつねにすでに政治的なのだ、 という見方
....を「ザックバランな魅力」(『逃走論』P111)と評した浅田さんのダイナミズムはもーないのか? 浅田さんは、すべてに経済的連関があり、あらゆる表現が政治的であるという当り前の認識をできる数少ない人だったんじゃないの? 『構造と力』でラカンよりニーチェ・マルクス・フロイトに可能性を見出していた浅田さんのスルドサはどこへ行ったのか....?
浅田さんは、今、どーゆーレベルにあるのさ?
もー完全に終わったのか....な?
「宇多田ヒカル」より「填原敬之」がいいという理由を....
「村上春樹」より「田口賢司」がいいという理由を....
『蹴りたい背中』への「全然つまんない」「ぶりっ子」が「もう終わってる」「芥川賞」を取っただけ....という悪口ではない批評を....ちゃんとしてみせてくれないかなあ、と。
参考に....
kenyamaさんのblogの「ドゥマゴ文学賞の田口賢司「メロウ1983」と20年」が広い視点で参考になります!
junp_mさんのblog「JUNp@bLOG」のいろいろなスルドイ指摘も必読です!
id:KGVさんの「阿部和重 『グランド・フィナーレ』」での『メロウ』へ指摘が鋭くて参考になります。