ラジカルなスグレタ批評眼

 大塚英志さんの文芸批評家としてのスグレタ批評眼は江藤淳の死に関しての分析のなかで発揮されています。しかも同じような分析は他のどんな批評家や評論家にできそうにない印象があり、事実江藤さんに近いと思われる人ほど凡な追悼文を思わせるものしか発表しておらず、大塚さんの洞察のパースペクティブには感動しました。方法論としては吉本隆明さん的な分析が類似するかもしれません。
 この大塚さんのスルドサとメインとなる問題意識は『物語消滅論』の「第二章 キャラクターとしての「私」」で確認できます。「江藤淳はなぜ、第三の名前を名乗ったのか」という項目のセンテンスで

 仮構的な世界のなかで超越性をもつことに江藤は禁欲的だった。(P136

と死に至るかもしれない観念をえぐりだして指摘し、続く文章でそれが

 「超越性」をもってきて問題を回避している福田和也との違いだと思います。(P136

とズバリと指摘。しかも、この指摘は現在一般的にいえることでもあるでしょう。


 つまり「超越論」や「超越性」を主張している人というのは、そのことによって自分がジャッジされることを回避していると推測できるケースが多いという事実があります。
 それは斉藤環さんらが指摘する「理由のない自尊心」や、何かに仮託した自己主張、共同的なもの抽象的なものへの帰依や依存といったカタチで露呈するサマザマなものです。大塚さんが深い分析をしたオウムも、その究極には同じ問題があるわけです。それは、そのまま強度であるような、第三項を排除する、大澤眞幸さん式にいえば第三の審級を作動させないようなものでしょう。
 しかし、この場合の強度というものは、共同性や他者性を含意しないというレベルにおいて、すでに生命性すら持ち得ない動物化未然あるいはそれ以下のものでしかないものです。動物はある自己保存においてある種の行為に対しては絶対に超えることができない閾値を持っています。でも人間は違います。自殺するし、他殺するし、破壊する、自滅するというワケで狂気をもち得ます。
 大塚さんの仕事を総合すると、おそらくはオタクという言葉の一般化とともにマイナスイメージの先入観も作ってしまったM事件も含めて、すべてをカバーする論理として、この本を書いたのではないかと思います。