「仮想化」に「仮託」しちゃう人間

 彼自身がアメリカを仮想化してしまって、
 その仮想としてのアメリカに対して「私」を適用させようとするわけです。
 すると簡単にできちゃうところが実は問題なのです。(122

 江藤さんへの、この端的な分析と批評こそ大塚さんのフォース。simpleゆえにその破壊力は相当なものかもしれません。


 確かに「問題」は「彼自身」が「仮想化」した「アメリカ」に、「「私」を適用」することなんて「簡単にできちゃうところ」です。誰でも自分勝手に想像した世界観に自分を適用するのなんて簡単にできます。これが物語化した世界観の中で自己をキャラ化させるという『物語消滅論』の主張のメインな認識でしょう。


 「簡単にできちゃうところが実は問題」なのは、論理を逆転すると、それこそ簡単に問題がわかります。
 その理由は、「簡単にできちゃう」ように「仮想化」するから....です。


 たとえば、すべてに対して自分が生きやすいようにしか認識しなくなった場合を精神病といいますが、それも同じことです。精神病では直近の対象である二人称への対応から異常が生じますが、これも補正できなくなった対幻想=異常として把握できます。
 すべての生命活動は認識も含めて合理的になされます。つまり主体のロスが最小になるように考え行動します。そのトレンドが動物化です。その動物化した思考からは、自分の思考に合わせた認識しかでてきません。それをエクスプロイットするのはたしかに強度ですが、人間は本来強度なしでも生きていける特殊な生命として進歩してきたのではないでしょうか? つまり強度を必要としない全面的な認識として観念の自由があるわけで、その自由さこそがマテリアルな制限を超えて認識できる可能性のすべてだと考えられます。


 人間は自分が認識(仮想)したようにしか思考できず、それに合わせて生きてきたということそのものの認識を逆立させたのがマルクスでした。この逆転したものの見方を示したことは真に革命的であり、マルクスが崇拝され、同時に嫌悪された理由にもなっているでしょう。このマテリアルに依拠した思索とは別に、でもやはり人間が人間に都合のいいようにしか思考しないことを逆転させた思想家がフーコーでした。彼の試みはマテリアルがベースにあることを認めなかったために限界が生じ、最期に「言葉と物」を失敗だったという気持ちを抱きながら世を去ることになりますが、そのスルドサは鋭利でした。
 ところで○○は仮想であるという定義でもって、キャッチに自分の認識を示した思想家が2人います。

   ディズニーランドの中が仮想なのか、外が仮想なのか?

を問うボードリヤール

   塀の中が刑務所なのか、外が刑務所なのか?

と問うフーコー
 それぞれ同じことをいっても、資本主義を楽しく、しかしアイロニカルに語る「笑うセールスマン」のようなボードリヤールと、社会をペシミスティックに語ることで権力をリアルに暴くフーコー。その語り方そのものにそれぞれの思想がとてもよーく現われています。この意味では浅田彰さんがいったエティックではなくエステティック・・・というクールな戴冠した眼差しだけに可能な指摘は素晴らしいモンです....でした?、か。(W


参考に....
mikioさんのblog「ハードでルーズな生活」のいろいろな論評がオススメです!